朝、ともちゃん(友)が
を読んで
平等と公平の違い、のわかりやすい図を送ってくれた。
ぱっと聞いて、平等と公平の違いってすごく認識しづらいと思う。
人権や、平等、公平、そういった類のキーワードの意味を捉えづらいのは、日本語の特徴な気がする。
なんというか、漢字2文字に変換された瞬間に、まったく意味がわからなくなることってよくある。
わたしが日本に帰ってきてから、すごくたくさん言われて本当に衝撃で苦しんだのが、「あなたの例外を認めると全員認めないといけないからできない」だった。
ファミレスで、
キャベツと肉の盛り合わせの、キャベツだけの部分をx2でください。
と注文して(笑)
え、、、、何この人って顔をされつつ、
「申し訳ございません。メニューにないのでお作りできません🙏」
と言われ、
え!!???!!??!!??ななななんで!!!??!!??!!??
_(꒪ཀ꒪」∠)_
キャベツの材料はあるんだよね?キャベツ品切れとかじゃなくて、
キャベツと肉のx2はできるんだよね????
物理的にキャベツx2だけってできるよね?!?!??!
:(;゙゚’ω゚’):
_:(´ཀ`」∠):_
となりながら、
どうしようも対応してもらえずに、結局キャベツx肉を二人前頼んで、全部お肉の部分を残して帰らなくてはいけなかったわたしの無念・・・😂😂懐かしい
アメリカでは、ほぼ「全員が例外」という感じで(←多分ニューヨークが人種のるつぼだったため人々によってカスタマイズは当たり前だった)
対応されるのが当然だったので、「例外」が認められないという文化が常にショックだった。
しかし日本では、「きまっているものを、全員に同じように」というのが大切な価値観としてあって、それは特に問題ない面ももちろんあるんだけど、
それは常に、こういう上のEquality↑の状態を引き起こす。
この絵でいうと、
「ハンデがあるので特別な自転車をください」と言うと、「あなたに特別仕様にすると、全員にしないといけないから無理」と言われること。
まじでこれ役所とか福祉関係とか保育園その他で一体何回いわれてきたことか。。。。
それでね、自転車でみんなでサイクリングに行けるはずの機会を奪われてしまうのね。
できるはずなのに。1つ書類に許可のはんこを押してくれるだけで、みんなと同じような生活が送れるのに。と、何度憤りまじりの苦いなみだを飲み込んできたかわからない。
そして発達障害なんかは特に、「赤色の自転車にしてください」と言うと、
「ああ、こだわりが強いもんね」とひとくくりにされる。
色を認識する力が関係してるかもしれないのに?
ただのわがままみたいに必ず言われる。
今書いてても、悲しくなるけど、これが現実で、それは実は、じりじりと子供たちの自己肯定感や、自分を愛する力を奪ってくんだ。
だって、「めんどうくさいな」と嫌な顔されるたびに、あ、自分てめんどうくさい存在なんだって感じ取ってしまうもの。普通に傷つき続ける子たちをみるたびに、胸が痛む。
一人だけ特別はずるい、の文化。
みんなおんなじが公平だと誤解している世界。
ちなみにEquality と Equity を調べてみたら、
”人の違いは視野に入れず、すべての人に同じものを与えることを【平等(Equality)】、個人の違いを視野に入れて、目的を達成するために適切なものをそれぞれ与えることを【公平(Equity)】とする考え方がある。”
と出てきた。
日本でまだなかなか誤解が続くのは、
この、ある目的を達成するために
という部分が抜け落ちて理解されていないからもあると思う。
つまり、試合が見えないから、2つ箱をくださいと言うと、ダメ、あなたにあげると全員に2個あげないといけないからと言われるけど、
ある目的=試合を誰もが同じように快適に観戦できるように
が抜けてんだよね。
すると、背の高い人はさらに箱2個分背が高くなって、与えられるものは度を越してしまう。
サイクリングもそう。
「ハンデがあってもこどもでも、誰もが楽しくサイクリングできるように」
の目的をきちんともってすれば、おのずと必要な対処はわかる。
でもその目的が見えないと、
「みんなが好き放題わがままを言ってもよい」とか、試合が見やすい場所を確保できる、とか、人より遠くへサイクリングへ行ける!みたいな無法地帯になってしまう。
困っていない場所にいると、その些細な違いに気づけないことってたくさんある。
例えば当たり前に日本語の読み書きができると、サインのわかりづらさって気づけない。それはしかたのないことだけど、すこし世界を見渡して、困っている人が
どうして困ってるか、ほんのちょっとでも意識を向けてみると
たくさんの気づきが起こるんじゃないかな、と思うんだ。
みんなが公平になるように、違うものをそれぞれが与えられる世界が
愛があって素敵だとおもう🥺✨
小さな身体の子が食べれない量のご飯に苦しんでいたり、
大きな身体の子が、物足りない量のご飯に苦しんでいるなら
その凸凹を、分かちあうことができたら
全員がしあわせでいられるはずなんだよ。
知識も、知恵も、愛も、時間も、お金も、労力も
どんなことでもいい
多い場所から、足りていない場所に行き渡らせられたら
世界は十分、困らない世界になる。
さすがに最近は減ってるかもしれないけど、数年前に牛乳を豆乳への代替えを拒否されたときは、泣いてのたうちまわったよね。理解できなすぎて暴れたもん😂
先生、「あなたを認めちゃうと、全員がぼくはカルピスー、わたしはオレンジジュース、ってなっちゃうから」って言ってた。_:(´ཀ`」∠):_
画像をシェアしてくれたともちゃんが、
システムとかルールに反映されるまでにはまだ時間がかかるかもしれないけど、人の意識のレベルでは、昔とはまったく違ってきてて、思ったより速い速度で変わってきてる気がするよと言ってくれた。
ほんとうに、小さなことでも何かが伝わり、なにかが変わっているのを感じ取れたときには、長い間の苦しみがすべて、報われた感じがする。
どんどんみんなの意識が、本質に向かってゆくといいな。
ちなみに公平や公正は、正義のためにやるんじゃない。
世界が、ただ誰も苦しんだり泣いたりしなくていい、調和のある場所になるために
本気で考えてかないといけないんだと思う。
自分の一番愛するひとをひとり、思い浮かべてみて
そのひとが平等のまま不公平に苦しんでたら、あなたは幸せかな。
みんなで食べるりんごや、みんなで乗る自転車や
みんなで観戦する試合は、尊いんだよ。
家族みんなで出かけられる、それってあたりまえじゃないから。