それは、終わりに向かうからこそ、在るのだと。
どうせ終わるんだから、真剣に全力を尽くしたとしても、どうせ終わるんだから。そうやって、愛するひととの関わりや、大切なしごとや、尊い命のことに
コミットできない時間を経て、
それが、終わるからこそ、今やればいいのだと。
そう気づいたのはいつだったか。
わたしは愛することも、恐れていた。
そのうち終わりになるかもしれないしごとを、どうがんばればいいのかもわからなかった。
結局こっちが、ぜったいに最後まで愛すると決めたって、ことごとく裏切るじゃん。
バカじゃないの
って思ってた。
それでどこにも行けなくて、苦しくて、がんばることもできなくて、
いつも「終わり」が頭をよぎってた。
そんな時にあるときふと、マリアが頭に浮かんで、その愛に触れた時に、「あ」って思ったんだよね。
”途中で、終わってもいい”
そのフレーズがおりてきたときに、わたしは全てを理解した。
愛することや、全力でやったことや、何か真剣に取り組んだことがたとえ
途中で終わりを迎えたとしても
それでいいんだと。
人生には限りがあるからこそ、素晴らしいんだとかよく言うけれど
そういうQuoteじみた感じのじゃなくて
そっか、成功しなくてもいいんだ。なにも得られなくても、そこじゃないんだ。失敗しても、最後までやりきったことが大事なんだ。
その愛は、いのちは、
失われることが、
無いんだ。
そう悟った。
この人生でやれることなんて、たかが知れてる。
たかが知れてるから、手を抜くか
たかが知れてるから、できるだけやるか
それは自由だけど
それが100パーセントに満ちていけばいくほど
ただ、わたしたち自身が楽になり、輝きだし、幸せになる。
悔いのない時間を、過ごせるようになる。
それに手を抜けば抜くほど、
わたしたちが迷い、濁り、つまらなくなる。
どうでもいい時間を、もてあますようになる。
たったそれだけなんだよね。
だから、終わりを思って泣き、怖いきもちを感じ、それを思うとたまらなく悲しいくらいに失いたくない何かへの愛を
感じ切っていけばよい。
するとわかる。
そっか、終わるから、今大事にしよう。
それだけだということが。
昔どっかに書いたかもしんないけど、わたしは自分の子供に
どんな子育てを心がけてるかと言われたら、
「今この瞬間に最愛の母親が死んで消えても、
次の瞬間から、また愛を信じられる」ような子育て
だと答える。
それが、わたしなりの精一杯の愛だと信じていて、
彼がこの先一生、前を向いて歩いていけるために
唯一必要なことだと今も、そう思ってる。
それが失われることがないと知ることが、
そのシンプルなコミットメントが、
わたしたちの愛を永遠にし、
どこまでも無限に自由に解き放つんだ。
だから安心して愛してね。
安心して、がんばってね。
安心して、全力で生きてみてね。