
この前保育園で初めての発表会があって、わたしは結婚せずに子供を生んでいるので、いつも通りひとりで見に行きました。
年少さんの息子の番になって、保護者はクラスごとに優先的に近くで見られるようになっていて、前に行くのね。
その近くの席は撮影禁止になっていて、初めて劇やお歌を舞台で頑張っている息子の姿は、一枚も写真に撮ることはできなかった。
うさぎのお面をかぶって、はにかみながらセリフを言っている息子は、目に焼き付けるだけじゃもったいないくらい可愛いのに、カメラを向けてはいけない。
迷って、迷って、後ろのほうの席に移動してからたった一枚でもいいから写真を撮るべきか、騒がしい中で必死に考えた。
でも、舞台に出てきて、キョロキョロ、知っている人間を一生懸命探している息子を見て
「ママちゃんと見てるよ!」「ここにいるよ!」と近くで手を振り見守ることをわたしは選んで、人混みをかき分けて前に出たのです。
写真なんて無くたって、今この瞬間を目に焼き付けたらそれでいい。そう思ったから。
彼が知らない場所で大きくなっていることを泣きながら感じました。
その成長した時間というのは、そのままわたしが独りで子供を育てるという経験をした時間とイコールで、私は、発表会が終わって言葉にならない溢れそうな想いを抱えながら、息子に思い切りハグをして、
「頑張ったから、ケーキを食べに行こう‼️」と彼を誘った。
ところで どうして写真を撮ってはいけないのか?
わかりますか?
わたしはその瞬間まで知らなかった。
「親は、ほとんどが2人で発表会を見に来る」からです。
交互で変わりばんこで、ひとりが近くに行き、もう一人は少し下がって写真ビデオ撮る。
お父さんがカメラを向けてたら、お母さんは子供の近くに行けて、そういうシステムで、混雑しないように撮影禁止になってるからです。
別の方の経験をみても、そうなっているらしいです。 信じられないけど。
ちなみにこういう状況のとき、誰かにそれを同情してほしいわけでもなくて、わかってほしいわけでもなくて、シングルは大変だと言いたいわけでもなくて、 でも、この気持ちは、ただはじめての発表会をひとりで体験してみないと絶対にわからないものなのね。
良いとか悪いとかじゃなくて、ただわからない。
写真を撮れなかったことが悲しかったわけではなくて、保育園のシステムに怒ってるわけでもなくて、何かが辛かったわけではなくて、 ただ産まれてからの4年半、こうして独りで育てるという体験の重みと
ただ、物理的に手が足りないときに、どうしようもできない歯がゆさや苦しさ。
でも、同時にそれをただ体験しているという尊さを、自分はずっとこうしてやってきたという事実をぐしゃぐしゃになりながら、家に帰って 少し時間差で、疲れとともに涙が溢れてきたのでした。
わたしの元には、絶対に忘れないキラキラしたその瞬間の記憶と、うさぎのナレーター役の息子の、0枚の写真。
一人で育てるということは、それ自体が不幸なことではない。
たまたまだったり、いろんな事情であったり、むりそポジティブな選択だったりするもの。
ようやくそんな風に思える今日この頃に、 パートナーがいることも、シングルであることも、どんな家族のあり方でも。 それはいつでも全て、ニュートラルにそこあって、いろんなことを大切にしたいと変わらずに感じた日だった。
そういうときわたしは大抵、一週間違いの血の繋がらない息子をブーブー言いながらシングルで育てているセラピストの先輩、岡田哲也のことを想う。
わたしのほうが、子育てに関しては得意で楽をしている感覚があるけれど、彼はそれを自分の人生で体験することを選択しているのだなあ。といつもそう感じるのです。
独身の人に子育ての大変さを話した時に
『子育てしたことが無いから わからないんだと思う。』と、 言ってしまうことがある。
そういうのって時として、
『体験してるからって偉いのか?』
『それはおこがましいよ。 子育てしてなくたってわかるよ。』 と反発されることがあるけど、 わからないものは わからないんだよ。
良い悪いではなくて。
5分に一度は 何かしら中断されること。 風呂やトイレやコンビニすら 自由に行けなくなること。
どんなに可愛くたって 重たいものは重たいし、 どんなに愛してたって ムカつく時はムカつく。 それだけ愛憎併せ持った存在って 子供以外にいないと思うし、 だからこそ、 その体験で感じたことを大切にしたい。
岡田氏blogより
アメリカで子育てをしてきたAyukoさんからいただいたコメントで、気づいたこと色々。↓
私も、まいさんの答えを読むまで、なんで撮影禁止なのか分からなかったし、さすが日本だな…という思い。
シングルペアレントって未だにそんなに少ないんでしょうか? 残念な気持ち。
これを読んで、ングルペアレントが少ないというより、日本人の人間関係自体が、基本の扱いがEmotional であってPracticalではない感じなのだと思った。
Emotional というのは、感情的であるということ。
Practicalというのは、日本には薄い感覚で、直訳すると「実用的な・便利な・実務的な」ということ。
つまり、例えば、「お父さん」に限定しちゃうと お父さんいない子供がかわいそうだから、と”呼び方”に変に気を使ったりとか、「一人親なので」と言うと、しまったという顔をされたり。
でもその感情的なケアが欲しいわけじゃないのよね。 中には自分はかわいそうという立場を演じていて、同情をして欲しいひとも多いのかもしれないけど。
物理的な不便やシステムの部分を求めているだけ。
せっかくの舞台に、たった一枚でいいから写真を撮っても良い、その柔軟さが欠けてる。
日本は、「例外」を作ることを常に恐れます。
なぜなら、ひとつ許すと秩序が消えてなくなってしまうのではないか?と誤解しているから。
これは毎回毎回小さなことの連続で思うけれど、型に押したような「きまり」が「正しさ」だと思っているひとがいかに多いかということ。
フレキシブル(柔軟)であることは、本来、秩序を失うことではないのだよね。
むしろ、自分の頭で、予想外のことが起こったときに対応できる力を身につけるということなのに。
いつもAであるものが、ある日Bでやってきたらどうするか?
その背景や、理由を考慮して、対応したり判断ができること。
これはアメリカでは当たり前の感覚なのだけど、日本では、「いつもA」であったら、まず「B」は受け入れてもらえない。
または、「上に確認します」と言いに行き、上もまた、頭が固ければ、「B」は受け入れてもらえない。
なぜなら、ここで「B」を受け入れてしまうと、次から「B」に同じ特別対応をしなくてはいけないからです
これがだいたい多い理由。
背景や、理由を考慮する ということができれば、こんなことは起こらない上に、普通に善良な人々はむやみやたらとルールを破る心配なんてしなくても、本当は平和だと思うんだけどね。
つまり例えばだけど、シングルの方は写真の一枚や二枚撮っても目をつぶって、「あの人撮ってるじゃん!」とカメラを向けようとするようなアホが増えたら、その時に
「EMOTIONAL」になるんじゃなくて 「シングルの方はOK」とPRACTICALに張り紙でもすればいい。
対応される側は、シングルであることが恥ずかしいなら、黙っておとなしくしていればいいし、
「一人でこられている方への配慮願います」だろうが何だろうが、ちょっとした融通をきかせればいいのだけど。
日本の環境は、それ以外のところがものすごく配慮されていて細やかにいろんなところに手が行き届いている代わりに、それは崩せないようになっている。
写真の一枚や二枚で、大げさだと思われるとおもうのだけど、ひとり親とかに限らず、こういう部分での対応は 日本にいると説明しても全く通じないことがたくさんで、悔し思いもいっぱいします。
ひとつひとつはとても小さなことだから、スルーしてスルーしてやりすごすこともあるし、「ここは変わるべきだな」と強く感じる人々が、 ゆっくり声をあげてインスパイアしながら環境を変えていくしか方法はないのだと思う。
ところですごい昔で忘れたけど、アメリカから帰国中に
店で キャベツのサイドメニューを
「たくさん食べたいから2個分を盛ってきて」と頼んだのよ。
そしたら店員がてんぱっちゃって、
料金はどうするのか?
店長呼んで、ふたさらに分けるのか?
どうするのか!!??
みたいなクライシスに陥り、 衝撃を受けたことがある。
いや、キャベツのメニュー一人前をただ大盛りにして、 適当に2個分の料金つけるだけ。
とかいう概念が無い日本。
「メニューにないものは一ミリたりとも対応できない」 これは自分が働いていたアメリカのレストラン事情とは違いすぎて、さすがにびっくりしたけどね。
まあアメリカはアメリカで、
「おまえそれやりすぎだろ!」
ということを普通にやるけど・・・
(なんだろ、例えばコーラにオレンジジュース割って持ってきて)と言われて、独断と偏見でやっちゃっていいというw
しかも頼んだ人が料金3倍払うから〜 と言ったらそれもそれでOK、店ラッキー。みたいな。
さすがにそこまで無秩序だと、いきなりは無理だろうけど
もう少しでいいから、Practicalに考えられる&対応できる人が増えるといいよね。
わたしはひとり親のコミュニティとか、シングルマザーの集いみたいなものに一度も参加したことはないのでよく知らないけど、こういう保育園発表会の撮影について。みたいな話題もいろんなところでされているんでしょう。
世界中に愛と癒しが行き渡り、みんなが支え合って生きてゆけますように💕



