
日々の料理は、点と点をつなぐ線のようなもの。
生きることの手前にある、毎日の生活、暮らしに深くふかく、根付いているもの。
楽しむための料理ではなく、食べるための、生きるための料理は、わたしにとっていつでも「連続性」の上に成り立っていた。
だって、食べることは今日終わらないし、明日も明後日もその次の日も、自分のこの身体が生きている限りそれは続く。
ところで日々の連続性とは対照的な、「連続性のない料理」には例えばどんなものがあるかというと、
「彼氏の家にいって、その日だけ夕食を作ってあげる」とかかね。
愛のこもった料理は、さぞかし二人の関係を深めるかもしれないけど、がらんと空いた、小さく薄暗い電球が煌々と光る、冷蔵庫…
かろうじて醤油はあるけど、味噌とかないよね、みたいな男の一人暮らしの閑散としたキッチンにて、冷蔵庫のなかにはチーズと(冷蔵庫に入れる必要のない)レトルトカレーといつ買ったかわかんない漬物の残り。人参には新しい葉っぱが生え始めている。
当然食材もないから近所のイオンにでも手をつないで買いに行き、使い慣れない上に全くきれない安包丁を使って、微妙に使いづらい中途半端なサイズの鍋で一から作る。
いつかのわたしにとって、そういう料理は拷問のようだった。
まさに線をつなぐどころか、全部の点を一から用意するという骨の折れる作業。
どう考えても、恋愛したての盲目的に相手をハートの目で見つめてるときしかできやしないだろうが。
若い時そういう経験を何回かして、自分の作ったご飯は食べてほしいけど、しかも料理好きで楽しいはずなのに、しかも大好きな彼のためのはずなのに、なぜにこんなにも拷問なのだ?
と考えた結果、
「そうか。料理というのは点じゃないんだ。わたしの生活のなかに、連続した「線」として成り立っている。」
そう思った。
連続性の上に成り立っていない料理。手に馴染んだ道具のない場所。
そんな場所で、さて何かを作れと言われたって、
それはめんどくさいに決まってて、キャンプの飯盒炊爨とかも似たようなもんだとおもう。
ところでわたしが、料理教室をやって、ひとつのレシピでサラダを紹介したとしましょう。
そのなかで、作り方や、「コツ」や、ちょっとした豆知識など伝えて、料理教室のイベントを何度か開催してみて、そこでいろんなことを感じてくれたり学んでくれたという嬉しい声をいただくのだけど、
でもですね、実際のところ、その「サラダ」を、家で再現する可能性は、
どのくらいあるんだろうか?と思ってる。
家に帰って、いざ作ろうと意気込んでみたものの、
「あ、この野菜が足りないわ」
「あ、あの調味料どこで売ってるんだろう」
「遠くのスーパーにいかないと食材揃わないかも」
「まいさん、純ピーナツバターとかどこにも売ってねえよ、チッ」
と思った時点で、ふつうやめません?
わたしなら100パーやめるんだわぁ。めんどくさいから。
ところが、なんとも素晴らしきかな参加者の方々のおかげで、
「帰ってから作ってみました!すごく楽しいです!」
という嬉しいお声も度々いただいて。
そのように、ひとつひとつ丁寧にレシピに沿って作るのが楽しいひとは、
いくらでも料理教室でもパン教室でもせっせと通って
レシピブログを今日も更新してほしいですね、私の代わりに。
先に書いた、「絵画教室」と同じく「趣味」を満喫していてもらえばいいとおもうのですね。
でも、わたしがみなさんにできるようになってほしいことは、
「レシピを暗記する」ことでもなく、「食材を揃えることに時間を費やす」ことでもなくて。
先ほどの例で言えば、
「あ、この野菜が足りないけど、代わりにこれが使えるかな」
「あの調味料抜いてみたら、どんな味になるかな」
「遠くのスーパーにいかないと食材揃わないから、別のにしよう」
「純ピーナツバターはねりごまと同じって言ってたな、ねりごまでやってみよう」
こうやって、応用できるちから
そして、考えたり、感じながら
「つなげること」「線を引く」ちからなんだろうな、と思う。
今日は、昨日につながっていて
明日は、今日に、つながっている。
「料理」もまた、
静かに12時をまたいで
今日が、明日へ向かうように
境目のない感覚を
感じてもらえるといいなと思っているの。
世界中に愛と癒しが行き渡り、みんなが支え合って生きてゆけますように💕



