2018年5月14日 編集済
写真を撮る作業というのは、「光と影と丁寧に対話する」ということである。カメラをいじったことのある人なら、絞りやシャッタースピードを調節する意味が、光の量を調節することが全てである、ということを知っている。
色という存在は、光の下に含まれる。
わたしたちがこの目で見ているもの全ては、いろいろな色を持ち、複雑な様相を見せるけれど
それは、光があって初めて成り立つのだということを、あたりまえすぎて、普段あんまり深く考える機会はないかもしれない。
なにかが動いて、影がゆらめき、
風が吹いて、光の筋が動き、
そういうものをじっと、眺めて、
そこと黙ってコミュニケーションをとるのが私は子どもの頃からもともと好きで、光の量を調節し、まじめに取り入れ向き合う生き方が自分にとっての自然だった。
ある時Maiの写真の「あかりぐあい」が好きだ、というコメントをいただいた。
最初に書いた、カメラの仕組みでもある「光をどの程度取りこむか」を決めたら、その量を、ひとつひとつ確かめるようにして
一瞬を、永遠に変えていく作業。
動くものを捕まえることはとても地味な作業だけど、動的であり、同時に静的であって瞑想的だでもある。
灯りのはなしだけど、日本(アジア)の家には、文化的な背景と黄色人種の目の色素の関係で、蛍光灯のみ、という場合が多い。
これは目から取り込む光の量が白人とは違うのが理由の一つなんだけど、アメリカやらヨーロッパの家に蛍光灯はほとんど存在しない。
わたしは蛍光灯の光の色がとにかく怖くて苦手で、日本に戻ってからも自分の家にはひとつも蛍光灯を使わない。
(感覚過敏もある-平均よりも視覚情報や光に敏感)
賃貸だと必ず備え付けの蛍光灯がついてるので、最初入居するとまず全部電気を外してもらうのだ。
普通の電球を、場所によって全て組み合わせて明るさを変えて、夜寝る前には普通の電気を全部消して、灯りの大きさを調節できる、小さな間接照明をつける。
ワット数も、場所によって、7ワット、15ワット、25ワットで全部心地よい明るさは違うし、
作業するときようの手元の灯りも、ろうそくの灯りも、
それは全部用途が違うんだね。
もしこの先家を建てるなら、全部の部屋どころか全部の場所ごとに、調光器をつけるとおもう。
北欧だとかヨーロッパの、キャンドルが日常的にある生活のほうが
自分にとってはとても、自然な感じがするのだ。
わたしたちは、とても明るいエネルギーや、太陽のような強い光に惹きつけられる。
でもそれと同じくらい、真っ暗な闇や、いまにも消えそうな灯りというのは深く安らぐために必要で。
そのために、自分自身から放たれる、光の量も調節する必要があるくらいに。
いつも、ていねいにその瞬間瞬間の光とやさしく会話をしながら、
自分という存在もまた、ある時は
木々の隙間からちらちら弾く木漏れ日であったり、
南十字星の目印のような小さな星であったり、
優しく照らす、ろうそくの灯りみたいであれるといいなとおもう。