ウィリーウォンカというのは、有名な映画”チャーリーとチョコレート工場”のチョコレートの魔術師として描かれている男だ。
ジョニーディップが出ている映画は有名だけど、最近Wonkaという、新しい映画を観た。
この映画にでてくるPure imaginationという曲が、昔から大好きで、今回の映画に出てくるシーンもまた、美しくて、壮大で胸が高鳴るため息しか出ない!
甘くて、繊細で優しくて、そしてスケールが大きくて、
ほんとうに高価なチョコレートみたいな曲。
そしてウォンカのチョコレートは、子供を産んだときに住んだ、ニュージーランドのチョコレート売り場を思い出す。
日本の板チョコの、約5、6枚分の重さの巨大な板チョコには、ずらっとさまざまなフレーバーが並んでいて、スーパーで凝視しながらひとつづつ買ってはかじって味見をするのが楽しみだった。
そこには映画の中にでてくるウォンカのチョコレートも並んでいた。
それが、メーカーと映画業界のPR商品としてのただのコラボなのか、当時まだ、映画の存在をあまりよく知らなかった自分にとっては、もしかしたら、ほんとうにウィリーウォンカという魔法使いは実在していて、そのチョコレートもまた夢の国からやってきて、たまたまNZのスーパーに並んでいるのかもしれない、そう錯覚するような、チョコレートばかりだった。
そして映画に出てくるチョコレートという存在は、あらためて認識してみると、
それはそれは、甘くて危険で胸が苦しくなるような夢の記憶だ。
ほんのすこしのギルティと、幸せと夢がいっぱい詰まったチョコレートは、たくさんの人に魔法をかけてゆく。
ずっと、夢の中でそんな美しい幻のなかでまどろんでいたいような気持ちになる。
ウィリーの作るチョコレートは、奇跡が起きたり魔法がかかる、特別なチョコレートだ。
そしてそれは、たまらなく美しい。
今回映画を観ながら、美しすぎることは、罪なんだなとそう感じた。
でもそれは、この世界に必要な罪である。
ウォンカが、チョコレートを作る腕が天才すぎて、他の店から干されるエピソードが描かれているのだけど、一線を画した存在というのは、まず必ず否定されるのが世の常なのだ、とそう感じた。
わたしは、自分が紡ぎ出す言葉や、生み出す香りや絵や、表現のすべてにおいて
この世界に行き渡らなかった時に、そこに価値はないんだと誤解したけれど、ウィリーを見ていて、ああ、もしかしたら自分が作り出すものも、実はウィリーの作るチョコレートのように美しくて、この世界から一度追い出されただけだったのかもしれない。
そんなふうに思った夜だった。
夢や理想のように美しい世界は、エンターテイメントとして重宝されるけれど、まさかその世界が現実で、その世界の中で実際に生きている人が実在するのだとは、誰も思うまい。
そうしていつしか、人はそんな虚構のような美しさは、ただの造りものでフェイクであると、そう信じてゆく。悲しいかな、生み出した張本人ですらも。
でもウィリーウォンカはいつも真っ直ぐにその素晴らしい魔法のチョコレートのことを信じていて、最後夢のチョコレート工場を作る。
自分もこんな感じに生きてゆきたい。そんなふうに素直に感じる嬉しい夜だった。
今日も甘いメロディに、溶けてゆく。
映画の中に出てくるオレンジ色の小人、ウンパルンパというクリーチャーが、昔から大大大好きな俳優さん、ヒューグラントだったときびっくりして、存在感半端ない。全く聞き取れない英国訛りの英語と小人のファニー感がで、笑いが止まらなかった。
みんなにも観てほしい。
そして、たくさんのことを思いだしてほしいと思う。
純粋に想像をふくらませていった最後に、それは夢の世界ではなく現実になることや、その美しさがたとえ、一瞬でも罪のような気がしたときに
それでよいのだということ
何を恥じるでもなく、大事にしていい。
そして美しいままで、この世界で生きてゆくことは、きっとできるし、それが大勢の人を幸せにするということも。
何度もリバイバルされる理由がよくわかるなあと思う、映画。