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栗という風物詩(栗きんとん)

 

日本ならではの素材が、四季折々にスーパーに並ぶたび、作り方や扱い方を教えてくれるひとがいたら、どんなに楽しいだろうと思うことがよくある。

世代を越えて受け継がれる日本の伝統的な食材の扱い方は、もはやほとんど教えてくれる人はいなくて、料理好きだった叔母に毎回訊きに行くも、子供が巣立った今はほとんど面倒で作らない、と言われることが増えた。

梅や栗、漬物やおせちなどの季節料理など、海外で長く暮らして料理に精通しても、それは決してどこかで目にすることはできない。

本や文字で上手に情報を得られないわたしにとっては、経験豊かな方から直接習いたいと思うも、そんな古風な料理教室自体、あまりメジャーではない。

せっせと毎回修練を重ねて上達したい、と思うきもちはあれども、消費できる量も限界があるので、なかなか手を出せないのが現実だ。

さっと作れるかどうかの技術はさておき、そういった文化や伝統が守られながら、イベントとしてでも経験できる機会というのは大事だなと毎回感じる。

 

もうじき100歳になる、尊敬する辰巳芳子先生に弟子入りしたいと若い頃そう思っていた時期があるけど、先生がこの世界にたくさん残してくださっている本を読みながら、これからの人生、日本の料理に触れる機会をたくさん作ってゆきたい。

 

 

⚪︎

わたしが生まれ育った岐阜県に近い愛知では、季節になると岐阜の栗きんとんが名産で、いろいろな機会にもらったり食べたりする。

去年、栗を入手した時に、あわてて大根おばさん(叔母)のところに駆け込んで、栗の扱い方を訊きにいったことがある。

栗きんとんを作れるほどの量ではなかったため、栗ご飯にしようと思いコツを訊きに行った。

 

愛知県の老人は、代々近所の喫茶店にことあるごとに集まることになっている。叔母の父でありわたしの祖父も、朝はモーニングで集会にいき、午後は同じ喫茶店でコーヒーを飲むのが日課だった。

若い頃に一度、その日課に興味をもったわたしは「ついてっていい?」とおじいちゃんに申し出て朝の会に参加した。

喫茶店に行くと、祖父の他に老人が10人弱そこに座っており、ただモーニングを食べている風景である。

海外に行ったり来たりしていた頃の20代の若い女は老人たちに混じり、得体の知れない心地よさと安心感を覚えた。

特に何を話すわけでもなく、向かいに座った寡黙な祖父と一緒に、その独特の流れる朝の時間に身を委ねるのだった。

 

栗について叔母に連絡を取ると、パン屋にいるという。喫茶店の代わりのイートインがある近所の行きつけのパン屋があり、時代は多少変わった。

家にいるよりも、地域の会館の近くのそのパン屋にいるほうが多いのではないかと思うくらいにそこにいるのは、代が変わっても、男女が入れ替わっても変わらないのが特徴である。

「行くわ。」

一握りの栗のはいったポリ袋を握り締め、パン屋に入ると例の10人弱の老女たちが明るく集っている。ヨガ帰りに毎週パン屋に寄りコーヒーを飲むのが慣例らしい。

ちなみに東海地方の、コーヒーを頼むと朝パンや卵がついてくるモーニングは全国でも有名だが、そのパン屋では、パンを買うとコーヒーがタダでついてくるという店であった。

それが地域的なものなのか、全国チェーンでは普通の文化なのかは知らないが、パンを買うとレジでコーヒーがいるか聞かれる。

おまけとは、何歳になっても嬉しいものである。

 

知らないバアさんの集団の中に入り、脇目もふらずに叔母に栗について聞いていく。

ごはんを炊くときの水の量、塩を入れるかどうか、最初に短い時間茹でるなど、コツを教えてもらって家に帰り、栗ご飯を炊いた。

 

岐阜の名産の栗きんとんが、賞味期限が短い上に、ただの栗を砕いて砂糖をいれただけのシンプルな菓子が、やたら高級なのは、なぜなのか。

 

それは、実際に栗と格闘したものにだけ理解できる。

 

栗きんとんはわたしの好物ではないため、季節ごとにお店に買いにいくことはしないが、お土産にいただいたりすると、息子は一箱一気に食べてしまう。

大人は一個いくらか知っているため、なんだか申し訳なさげに、高級な緑茶でも淹れたくなって、大事に食べるが子どもは違う。

美味しい美味しいといって、あっというまに消えてなくなる栗きんとんだった。

 

わたしも実際に栗を扱ってみるまでは、何か特別な工程などがあるから高価な菓子なのだとそう思っていた。

 

でも、栗きんとんに限っては本当に違う。

限りなくシンプルで、限りなくシンプルだからこそ、たったすこしの茹で加減の誤差や使う砂糖の量や質で全てが決まる菓子。

奥深く、繊細であり、この地球上の恵みでもあるナッツ類と同等、あの硬い殻をひとつづつ皮を剥くのは、とてつもない重労働なのだ。

 

本当に今どきの科学技術が発達し、AIがすべてを解決してくれるような時代。栗をさくっと剥いて加工できそうなものだが、ひとつひとつの手仕事が、その伝統を守っているのだと思う。

やってみると、一個皮を剥くだけでも一苦労なくらいにそれは硬く、鋭いナイフや手の力の入れ具合を工夫するのが得な自分でも、ひたすらに地味で大変で、一向に楽な道が存在していないことがわかる。

 

叔母が、近所の栗の木を所有してる家から、毎年手作りの栗きんとんをもらうんだけどね、という話をしたが、一本の栗の木から次々落ちる大量の栗を、ひたすらに加工する手間は想像しただけで気が遠くなるほどだった。

「ちょっと手伝ってもらえない?栗あげるから」

ともしその近所のひとに訊かれたら、揺るぎない意志をもって、強気で断る自信がある。

そのくらいに、1個か2個、皮を剥いたあたりであっという間にへとへとな気持ちになってくる。

わたしは延々と続く手仕事が、普通よりもかなり好きなため、まさか自分が背筋を伸ばし「お断りします」と言うなどとは想像しがたいほどである。

 

たいした量もない栗仕事をしながら、叔母に、「めっちゃ硬い。」とラインをして、なぜ、美しい化粧箱に入った栗きんとん1個300円するのか、骨身に染みて理解できたあたりで、栗の木を所有している人々へ、ありがたくて手を合わせて土下座したくなるのだった。

 

洋菓子でいうところのモンブランも、栗を使った菓子のファンでもないわたしだが、この世界のありとあらゆる食材の中でも、ははー!と恐れ多い気持ちで向き合うに値する食材であることだけは、触ってみると本当によくわかるのだった。

 

 

2017年に一度調べて栗の茹で方には、

10分中火で煮立てて、その後弱火で50分と書いてあった。

水1リットルに対し、小さじ2の塩を入れる。

 

一回水に半日以上漬けたのち、天日干しをすると、甘みが増すらしい。

茹でて剥いた中身の状態が250gに対し、和三盆という砂糖を50g入れて作った栗きんとんは、売っているものよりもべちょっとなり、茹で加減や水加減が重要なのだと悟った。

伝統のやり方では漉し器などを使うのかもしれないが、外国に長くいたわたしはフードプロセッサーに気軽にいれてみる。

 

栗きんとんをやってみて重要だと思った4点。

  1. 乾燥度合い(水分量)
  2. 砂糖の質と量(これは和三盆に限る気がする)
  3. 塩加減
  4. 栗の潰れている加減(テクスチャー、舌触り)

 

砂糖については、風味のある甘味料(はちみつやメープルシロップなど)は栗の風味を生かせないので使わないこと。
普通の砂糖は、鋭い甘みが個人的には栗の味を何割か殺す気がするので、高価な材料を丁寧に使うことを大事にした。

 

いつも自分が作るレシピで大事にしているのは、ユニバーサルであること。手に入りやすい、手頃な材料を使って気楽に作るというものがあるけれど、

栗きんとんに限っては、

 

・質の良い素材に手間をとことんかける。

・精密に執り行う。

・栗と栗を扱うすべてのひとへの敬意

 

瞑想的なプロセスが楽しみでもある季節の風物詩である。

 

 

また、秋になったら作ってみたい。

自分が食べずとも、家族が大事に食べて喜んでくれたら、そんな手間をかけたことが、なんだかとっても誇らしく思えることだろう。

 

 

 

栗は、日本の伝統的な木の実。ナッツのひとつである。

 

 

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世界中に愛と癒しが行き渡り、みんなが支え合って生きてゆけますように💕
Mai

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