ひとは、自分でできることが、うれしい。
それは、自己尊厳とも関わっていて、
小さな子どもでも、死にかけの老人でも、重度の障害者でもみな、同じだ。
だから、なにかを全てやってあげる代わりに、
何だったら、自分の足で歩けるだろう。
いつもそう考えて、突き放すんじゃなくて
どう手を差し伸べたら、自分でできることが、増えるかな。
そんなふうに考える。
子育てはすべてがそれだと思う。
介護もまた、身の回りのすべてをやってあげるのではなく
何なら、自分でできるかな。
と思うことも。
完全に寝たきりのお母さんが、食べさせることやおむつ、手も足も全身が痛くて動かせなくて
すべてをやってもらうことを今、受け入れたとしても
それでももし、小さいおにぎりを自分の手で持って食べられたら、
多分お母さんは嬉しいと、そう思うから。
大人や健康な人間は
自分でできることが当たり前すぎて
できない人間の気持ちがなかなか、わからない。
そうして「できなくていいよ」と排除されることは、ひとつの愛だけど、実は苦しいんだ。
でも、「どうしたらできるかな」と考えて工夫してもらうことは、もっともっと高い次元の愛で、そして、自分が自分でできた。それをやらせてもらえたと
思えることは、
何よりの助けになり、生きる希望になる。
何だったら、どんなふうだったら、できるだろう。
そうしてできたときのほとばしる輝きを、みてごらんよ。
それは、自分自身にも言えるんだよ。