いつか、わたしが不幸なのは、何かに執着するからなのだ。とわたしはそう思った。
もっとずっと昔、死ぬほど苦しんでいたこどもを産んだ頃に、
母親から言われた、「あんたは高望みしすぎなんだわ」ということば。
いい人と結婚したい、そんな仕事はしたくない、これはできない、この人とは一緒にいたくない
のオンパレードだったわたしに、母は、わたしが選り好みをして理想が高く、そして欲深いから、
娘は不幸なのだと。
わたしは、そのことばを鵜呑みにしたわけじゃないが、結局は、そのとおりだと思いこんで生きてしまった。
本当に惹かれたりすてきだなと思うひとと一緒になるのは、高望みだから、
好きじゃないひとと結婚すれば幸せになれるのだと思った。ずたぼろに傷ついた。
本当に好きなことをしごとにするのは贅沢だから、好きじゃないしごとをとことん極めようとした。死にかけた。
何をも望まなくとも、ふつうの暮らしでよいと本当にそう思って生きてきた。
人は、わたしが強欲でわがままで、ぜいたくが好きだからと言った。
他の誰より質素な暮らしで、はだしで丸裸で外国で暮らしていたわたしには、全く欲しいものとか無くて、でも人にはそう言われて、
そのカラクリが全くわからなくて、そしてわたしは彷徨ったまま孤独に
人生の半分を終えた。
ようやく今、なぜ自分がこんなにも不幸だったのかが理解できた22年の秋。
わたしは、ほんとうに欲しかったものを諦めて、欲しくないもので妥協するのが幸せになれる道だと信じて、そして結局は、その道の上で生きることができなかった。
そのかわり、ついにさいご、自分にとって高望みだと思っていたものに向かって歩きだすと、それは、高望みでも欲でもなんでもなくて、最後唯一自分をほんとうの幸せに導いてくれる、そんなたったひとつの道だったのだ。
まさに、魂がただこの人生で望んで最初から決めて生まれてきたような、そんな道。
自分にふさわしいものが何かを決めるのは、自分だ。
付き合う人も、愛する人も、しごとも、やりたいことも、住む場所も、なにもかも。
わたしには欲なんか無くて、だからこそうまくいかなかったんだなと今はよくわかる。
あまりに素敵に見える世界は、自分にはもったいないとそう思うことがきっと誰にでもあるかもしれない。
愛や素敵な暮らしや、そんなのは現実じゃなくて、夢の中の世界だけだと。
理想と目の前の現実は違うんだと。
でも本当は、そうじゃない。
理想は、それを手に入れるための、やさしい地図のようなものだ。
その地図を片手に、全然違う理想じゃない場所を彷徨うから、わたしたちは永遠に迷子になる。
発達障害だから、諦めなくちゃいけないとか
わたしはxxだから、これには手が届かないとか
そんなの、嘘だった!
自分にほんとうに相応しい世界は、そこには、真の喜びと愛と、しあわせしか落ちてない。今毎日そんなきもちがしながら生きてる。
そしてそれは、望んで進めば
必ず現実にすることができるのがまた、うれしいところなんだよね。
いつか、なにもかもを諦めて、なにもかもを手放して生きることで平穏を得ようとし、
そして結果、望んでいるはずなのに何一つうまくいかずに、絶望のふちを漂い
いのちまで落とすところだったわたしに、言いたい。
「ほんとにほしいのは、なんだった?」
いまようやく、自分が進みたい道にまっしぐらにすすめて、
それは時に道を均す(ならす)のに確かに大変だけれど
自分が向かいたい場所だから
なんて、しあわせなんだろうって
そう思うんだ。