外国に住んでいたことがある友だちと話せるいうのは、わたしにとって幸せなことだ。とりわけ、ご飯を食べるときにそれは言える。
海外旅行で色々旅したことがあるのとそれは、やっぱり少し違っていて、たとえば昨日圭ちゃん(数すくないともだち)が、
「おれアメリカにいたとき週2くらいでフォー食ってたよ」と言ったように、生活の一部に、ルーティンにそれが存在することが、なんていうか「生きる」に近い場所にある感じがする。
海外に行った時にそれ食ったことあるとかじゃなくて、あそこのスーパーでいつもそれを食ってた、というその暮らしに根付いた感じがわたしを安心させるのだ。
くる時にパクチーとセロリともやしを買ってきてもらった。
フォーを作って、2人で汗だくになりながらかぶりついて食べると、本当に「生きてる」という感じがする。
もともと日本での食事が苦手で、そんなに体質に合っていないわたしは、アメリカやヨーロッパ、中国で暮らしたときにもほとんど日本食に飢えたりする心配がなかった。
その代わりに美味しいパンや野菜や果物が日本と比べてめいっぱい簡単に摂れる食事や、アジアのご飯は、自分が自分らしく楽でいられるためにとても大事なものだった。
普段、日本で生きやすいように息子や家族に用意する食事は、ほとんど自分にとって外国のご飯といったところで、自分がどこにいるのかよくわからなくなる。
そんなときに、ふるい友だちがやってきて、
「うん、うまい!」と言いながらフォーをすする時間は、自分が自分に戻れる貴重な時間だ。
わたしのフォーも、ベトナムの現地で覚えた味じゃない。ベトナムに行ったことすらない。
ニューヨークのダウンタウンの、いろんな店でしょっちゅう啜った(すすった)その味は、いつも苦手な五香が効きすぎてるのもあって、必ず店で
ファイブスパイスが効いてないメニューを訊ねた。
目の前に座るのは、ともだちだったり、恋人だったり、だんなさんだったり、元恋人だったり、同僚だったり、いろいろだった。
それは、旅行にいったときの特別な味じゃなくて、日々の、生活の、暮らしの延長にいつもあった味で、いろいろなシーンを思い出す。
レシピのメモ一覧に、「しあわせになれるフォー」と書いてあるのをみつけた圭ちゃんは、「まじでしあわせになれるフォーやん」と言って写真をとっていた。
同じフォーでも、食べる相手によってその味は変わる。
食べ慣れてない人に出せば、「なにこの麺」となったり、やれパクチーがダメだのナンプラーがきついだの、苦手なひともいると思う。
遠慮しながら作って食べるフォーは、しあわせじゃないフォーだから、わたしは作らない。
そんな中で、
”いつかのあの日々”を思い出しながら、時空をこえてその幸せな時間を共有できる相手がいることこそが、しあわせなことだなと思った。
(全部が幸せなフォーレシピ)2人分
セロリ 半分くらい
鶏肉 適当(きのうはサラダチキンをいれた)
パクチー アジアの涼風をめいっぱい感じられるくらいもりっと
もやし(食べ慣れてるひとが目の前にいたら、生で。さっと茹でても)
麺 150g〜200gくらい
鶏ガラスープ Tbsp2(大さじ2)
スープ(1L)と茹でるようの水(1Lくらい?)
ナンプラー 1 tsp(小さじ1)くらい
塩 1 tsp (小さじ1)くらい
こしょう
<食べる時>
ライム
たかのつめ
フライドガーリック
最初スープ作る時に、パクチーの根っこを一緒に茹でると香りがよくなる。
パクチー育ててるから、根から引っこ抜かない場合は無しでよい。
買ってきたパクチーだったらやると良い。
<食べかた>
気取らず汗だくになってすする。
うまい、おいしい、と何回も言う。
外国にもベトナムにも行ったことがなくても、思いを馳せる。
たまに、どうでもいい話をする。
「全部が幸せになるフォー」の、しあわせになる理由のひとつとしては、
満足感と満たされ感が当社比5倍なのにも関わらず、なお食べたあとの胃やお腹が重たくならない、という部分にある。
世界にはいろんな麺があって、パスタやらなにやら
いろんな美味しい幸せになれる麺はいっぱいあるけど、
あんなにも食べたあとに、こころも身体も軽いままでいられる麺は、フォーに関しては世界で一番だとそうおもう。