わたしは耳が、聴こえない。
でも、いっしょうけんめい、喉を震わせて、聴こえない音を出す訓練を受けた。
喉のとても小さな動きや、震わせてそのときに同時に息を吐き出すことで、ことばをつむぐ。
ひとびとはそうして、話すというやりかたを使って、思いを伝えたり、愛をささやいたりしているのだといつしか知った。
その音がどんなものか、わたしには、わからない。
生まれてからずっと、一生懸命そのすてきな楽器の音色のことや、とろけるような声のことや、波や水がしぶきをあげるときの音を想像するけれど、わたしの世界には音がない。
それは、悲しいことではなくて、ただ自分にとってはそれがいつも普通で当たり前だったから、音が聴こえたら良いのにそう思うことはなかった。
音が紡げたらとか、声を出せたらと思うことも。
でもわたしには、愛するひとたちがいた。
その人たちは、声をつかって、話すことや、聴くことを使って、そしてつながりあったり、笑い合ったり、とても大切なことを共有しあったりした。
わたしは、声を出して、自分のきもちを届けたいとそう思った。
たとえわたしには、相手の声が聴こえなくとも、もしも自分がひとつでも何か声をつかって何かを届けることができれば、もしかしたら、音のない世界にも
光が差すかもしれないと、そう思ったんだ。
音のある世界と、つながることができるかもしれないと、そう思ったんだ。
わたしは、耳が聴こえない。
でも、わたしは、話すことを覚えた。
たどたどしいClumsy な真似の音じゃなくて、一端に耳が聴こえるひとのように聴こえるくらいの、それは技術だった。
なぜかって。
わたしには、耳が聴こえない代わりに、他のひとが感じ取れないくらいに微細な、喉の高低や動きや、唇や口の中が通る振動や、呼吸のひとつひとつの見事な違いは、なぜかわかったから。
19年かけて、注意深く訓練をして、わたしはまるで、そして外からみると、とてもよく耳が聴こえる人間のように、見えるようになった。
わたしが話したかったのは、みんなと同じように見せたいからじゃない。
わたしには、思いを届けたい、愛する人がいるから。
ハグをして、抱きしめられて、キスをされて、彼がどんな声をしているのか、知る由もないくらいに
それは一度もこの先も聴くことはできないけれど
それでも、
彼に、愛してると自分のことばで届けたかったから。
I am Deaf but I talk because I love you.
話せるからといって、耳が聴こえるとは限らない。
書けるからといって、読めるとは限らない。
日本語を話せるからといって、意味がわかっているとは限らない。
大人の姿をしているからといって、時計が読めるとは限らない。
世界は、目に見えないことに満ちていて、
そのことにほんの、すこし注意を向けることさえできれば
そこは、とつぜん愛がゆきかう場所になる。
わたしは、あなたを愛してるから、
だから明日も一生懸命、なにかを伝える。