こどもたちとの コミュニケーションや理解が、なかなかうまく進まないとき。
彼らが、何に向かっているのかを、一緒に臨まなくてはいけないとおもう。
たとえばこどもがやりたいことをただ、なんでも叶えるのは愛じゃない。
あれこれ自分がこうだと思う正しさを、押し付けることももちろん愛じゃない。
何を考えてるか、わからない・・・
何も、話してくれない・・・
言ってくれないから、わからない・・・・・
自分とは、違いすぎて・・・
そうおもうかもしれない。
でも、彼らは、何も話さないんじゃない。
話しても、わかってもらえないことを知っている。だから話さないんだ。
何を考えてるのかを、あなたに隠したいわけじゃない。後ろめたいことを抱えてるわけじゃない。
ただ、その考えを尊重してもらえないことを知っている。
そういうときに、躍起になったり、自分はダメな親だとか思わなくてよくて、
ただ、彼らが、何を考えてるか、少しづつでいいからシェアしたいと思えるような、愛を見せてゆけばよい。
こどもたちは、自分たちの人生を、しっかりと見据えて歩いてる。
わたしの息子のたおくんももちろんそうだし、どんなに小さい子供だって、彼らの人生をそれぞれ携えて生まれてきた。
親のものじゃなく、彼ら自身の人生を。
それをね、ただその歩みがどんなものなのかを、一緒に見ていきたい。とそう思うんだけでいいんだ。
地図の、行き先の目的地を、彼らが自分のなかで見据えているとして
それはもちろん、話してもらわなければ、どこを目指してるのかなんてわからないと思う。
でも、話してくれないからわからない、ではなくて
どこを見てるのかな、と思うこと。
彼らを見てあれこれ理解に苦しんだり、自分を見て否定したりする前に
”彼らが見ているその先の景色”に目を向けてみることが大事なんだよね。
結局ね、人は、どれだけ目を凝らしても見えてこないことっていっぱいあるんだ。
でも、「その人」じゃなくて、「その人が何を見てるんだろう」という意識に切り替わると、突然景色がかわる。
こどもを見るよりも、「子供が見ている景色」がそこではじめて見えてくる。これは子育てじゃなくてパートナーシップでも他の人間関係でも同じだとおもう。
それは架け橋になり、理解をうみ、こどもたちが、
「あ、ここに、自分が向かおうとしている場所を、一緒に見ようとしてくれているひとがいる」って信頼を寄せる場所になっていく。
すべての親がそれに気づいて成功したかといえば、そうじゃない。
わたしたちの親もきっと失敗して、うまくできなくて、いまだにあなたを苦しめてくるかもしれない。
でもね、誰かを変えようとしなくていいし、変わるのは自分だけで良いし、なんなら
変わったりすらしなくて良い。
見る場所を、焦点をほんの少しずらすだけで、そこに嘘みたいな雪解けや理解、ほんとうの愛の通ったコミュニケーションが生まれていくよ。
わたしにも、多くはないけれどそういう人がいてくれる。
わたしを見るんじゃなくて、わたしが何をしたいのかな?と耳を傾けてくれるみんな。
それが、なによりも支えになって、前にすすむ勇気をくれる。
マイのことしか見えてない人は、愛してるってどれだけ言ってくれても結局続かないね。
マイの目線のその先を、見てくれる人の愛は、根底から守ってくれる。
そして自分もまた、たおくんのことを見るんじゃなくて
たおくんが何を見ているか、何が好きで、何に向かいたくて、どういうときに道を踏み外して、それでも最後どこに向かいたいか?
その「先」をいつも、見るようにしてる。
みそ汁の中にはいってるきのことわかめが好きだって言うから、今日わかめ買ってきたもん(笑)こういうふつうのことの積み重ねだよ。本当😅
他人のことなど理解できなくて当然、親子だろうがそれは当然、は
まったくもって当然じゃないと思う。
だれかを愛することは、
まったくの他人でまったく違う要素をもって生まれてきた誰かの、
自分には絶対に想像がつかないようなその誰かの見ている世界を
ほんの一ミリから寄り添って想像してみる。
そこから、始まる。
それに尽きるんだ。
理解なんかしなくてよいから、「理解してみよう」とトライしてみよう。
理解してみようと努める相手に、こどもたちは心を開くよ。
ちがうからこそ、お互いを知ることで、無限にわたしたちは広がり豊かになってゆけるんだ。
料理もおなじ。
弁当とか、こんだてとか、何をつくるかとか。
そういうのってあんまり重要じゃない。
食べるひとが、どんなのだったら今日を1日快適に過ごせるかなとか。
どんなのだったら嬉しいかなとか。みそしるは、わかめかーとか。
そういうのに思いを馳せていけば、必然的にそれはかたちづくられてく😀