今の家に来てから、コツコツ台所を整備していて、足りない道具や整理整頓を続けていく中で、少しづつまた菓子を焼いたりする勘が戻ってきたというか、感触を思い出してきた。
今の家に来てから、なぜか料理や菓子を焼こうとすると大混乱になった。
それでいろいろ工夫していく中で、気づいたことがたくさんあったんだけど
人一倍環境に左右されるわたしは、身の回りの環境が、まるで別人かとおもうほどに「できること」と「できないこと」に影響するのだということがわかった。
つまり、アメリカにいたときに楽にパンを焼いたり菓子を焼いたり料理ができていたのは能力が高かったとかではなく
環境の影響が大きく、
(例)・スーパーの立地 ・スーパーの種類 ・表示言語 ・キッチンや部屋の広さ ・Equipment (機器の有無 オーブンがあるか、コンロが4口か2口かどうかなど)・配置 ・動線 ・日常で目にする食べ物
↑のような条件がものすごく、自分の台所しごとに影響していたということだった。
発達障害との関連もものすごくある。
わたしの場合は、スペースの広さや、片付いてる場所がきちんと確保されないと、ほとんど作業ができない。神経質だとか、贅沢とか気にしすぎとか散々言われてきた人生だったけど、そうじゃなかったのである。
ワーキングメモリの低さが、それは関係しており、必要なスペースを与えられることでそのIQの低さをカバーできたりする。
環境を整えることで、能力が上がったように見えるのだ。
でもそれは、「本来の能力」がきちんと使えるようなサポートがもらえている、と言い換えることもできる。
日本に帰ってからそれは、たとえばスーパーの食材の言語を変えたくとも、どう頑張っても変えられない部分もたくさんあって、その限られた環境やスペースの中で何ができるかを模索しながらもがいた日々。
”まるで別人かとおもうほどに”と書いたけど、
「昔できていたことが、もうできなくなってしまったのだ」という能力の低下、それはわたしを絶望とともに脅かした。
発達障害ではなくて、2次障害(適切なサポートがなかったために不安障害や鬱を引き起こすこと)によって激しいパニックを繰り返してたことがようやくわかったのは、とても後になってからだった。
その後普通に治療や対策をきちんとして、ずいぶん具合も良くなった最近だけど、それと合わせて台所も1年かけてだいぶカスタムされることになった。
諦めずにやろうとか、そういうことを思ってたわけじゃないんだけど、とりあえず改善できそうなところとかをコツコツDIYしたり、コツコツ整理したり、いろいろ試したりしていったら、知らないうちに小さな台所という箱が少しづつ動きやすい場所になってきたみたいだ。
長年どうしようもなく抱えてきた、レシピの整理ができなかった、という部分に光がさしたことも本当に大きい。
アメリカの計量と日本の軽量の換算でつまづいてた部分も、少しづつ良い意味で諦めがついてきたというか、
自分の認知の力に照準を合わせて「わかりやすさ・明瞭さ」を追求することだけじゃなくて、
無理矢理わかりやすくしなくても、「ちょっとわかりづらいがオリジナルをキープ」に、人の助けを借りつつやればよいということも練習してるところ。
一回働いてたショコラティエの偏屈なおじさん(天才だった)のレシピは、なぜか
クーベルチュール3561g、砂糖658g とか書いてあった。
まじでこれどういう意味だろう、嫌がらせか?
と思ってたんだけど、蓋を開けてみると 1カップとかで計ったものを、グラム換算すると半端な数字になるというだけだったっぽい。(あとは、おじさんは店のオーナーとソリが合わなかったので、嫌がらせも絶対あったと思うが)
いつもそのことを思い出して、3500g。と親切にレシピを作り直すのも愛だけれど、3561gをあえてキープするのも良いと気づいたことは、わたしを自由にしたと思う。
今でも、USの1カップが250mlであることと、日本の1カップが200mlであることで混乱することもあるけれど、
自分が一度身体に覚えさせた量や、
°Fから℃への変換も、1個づつ、間違えながらやればよいと思う。
ずいぶん生きづらい身体を選んだよね、と思うみんなもいっぱいいると思うし、「わたし一体なんでこの親を選んできたの」とか、わたしみたいに「なんで日本を選んできたの」
という人もいっぱいいると思うけれど
わざわざ面倒なことを選んでいるわけじゃなくて、きっと全てに意味がある。
みんなが、それぞれの能力をきちんと活かせる世界になるといいね。
そうなると、わたしは信じてるよ。