予防接種だとかワクチンを打つか否かという質問をこれまでもたびたびいただいてきて、今日またいただきました。疑問に答えつつ、思うことや本来こんな感じかなあと思うことを書いておきます。
わたしの周りで医療関係のみんなとか、最近は会社の指示で山下さんもワクチンを打って、今週会ってきたともだちも、近々実家に戻り、注射を打つという話をしていた。
そのともだちの実家はお医者さんで、家族の様子を毎回聞いてきたけれど、当然のように家族全員最新の注意を払いながら過ごしているようだった。
たとえば「いのちを扱う現場」で活動するひとたちにとって、自分の一存で
「わたしはワクチンリスクあるって聞いたから打ちたくない」ということが許されるかというと、それは単なる無責任ということになるよね。
わたしの場合は、そこまで外を出歩いたり人がたくさんいる場所に行ったりほとんどしないから、自分ひとりがかかったときの影響力を考えるとちっぽけなものだとおもう。
でも、山下さんもそうだけど、たくさんの部下がいる場所なんかで、責任のある立場の人間にとって、もっと高い視点で考えないといけないことがたくさんある。
または家族や大切なひとたちに心配をかけないような行動を、どう心がけていくかとか。
思い返す限り、昔アメリカのビザをとろうとした時に(グリーンカードの申請のときだったか💦)、わたしは何かの予防接種を大人になってから打たなければいけなかった。
そのときは正直、すごくいやで、まぢか!こんな大人になって健康そのものなのに、変なチャイナタウンの怖い場所でよくわからん注射を打たれねばいけない(無念)とおもったものだった。
それはそれは死を覚悟するくらい怖くて嫌だったに違いないのだけど、そのときの自分にとって背に腹は変えられないというか、
・先に選択していたこと=アメリカに住むということ
↓
・それには注射が必要だった
という順番だったので、打たない選択肢は無かった。
でももし、自分にとって、その時
予防接種を打たないという人生のコンセプトを決めていたとしたら、
悩みながらも、
「そうか、予防接種を打たねばアメリカには住めない。ならば永住は諦めよう。」
という選択をしたと思う。
どんな環境や、自分の置かれている立場や役割もそうだけれど、
それは全て選択ができる。
自由が奪われる場所で生きることを選んだのなら、そのなかでの自由を勝ち得ていくと同時に、その場所を選んだ責任として、ワクチンなり、得体の知れない注射なりを打つべきだ。
わたしが「予防接種」のことを思った時に、まずあたまによぎったこと。それは、
自分が
「これ打ったらもう安心!ふー!」なんて浅はかな安心ではなく、責任と、そして周りへの配慮や思いやりなんじゃないかなと思ったのだ。
前に書いたとおり、だからといって自分が打たない選択をすることが、思いやりや配慮にかけているとは思わない。
自分はこのご時世でマスクもしない手前、(感覚過敏で息が苦しく、慣れることができない)ある人から見れば、人の迷惑も考えない選択に満ちていると思う。
でも、わたしはわたしの立っている場所から全力で世界を思っていて、それは、マスクをせずに感染してもどうでもいいとか、ワクチンを打たないけど絶対わたしは大丈夫だとか、そういうのとは全然次元が違う場所でものごとを捉えている。
ある意味、「マスクをしない」「ワクチンを打たない」立場としてのひとつの役割は間違いなくマイノリティだとしても存在していると思うし、それでたとえ何を言われてもそこは、自分のなかに例の「答えが出ている」限り問題ない。
”予防接種は受けた方がいいですか?”
”マイさんはどうしてますか?”
”やっぱりワクチンはやめた方がいいですか?”
予防接種は、受けても受けなくても良い。
大事なひとを安心させるために打ってもよいし、大切なひとたちを守るために打ってもよい。自分の身体のために打っても打たなくてもどちらでもよい。
わたしは打ってないし打つ予定もない。
ワクチンは、んー、打たないほうがよい。
でも打ってもよい。
いのちを大切にすること。
それが全てだ。
–
”台所で、命のはなしをしよう。
Eat, live and love.”
Mai