癒しや変容のなかで
「信頼」というのはやはり、エッセンシャルなもので
誰かを支えたいとき、誰かを助けたいとき、誰かを育てたいとき
ただそのときに、「信頼」があるから
大丈夫だと、なにもしないのではない。
「信頼」があるからこそ、じっと待ちながら、手を差し伸べる、そんな感じ
誰かを支えたいとき、誰かを助けたいとき、誰かを育てたいとき
多くの人は誤解して、
「信頼」しない。
信頼できないから、自分が支える
信頼できないから、助ける
信頼できないから、わたしが、手を掛ける
そういう感じになる。
つまりは相手は「できない」前提で、手を差し伸べるのだ。
そうすると、相手は、
本来持っているパワーや可能性、変容の余地や、癒しに向かえる希望を
むしろ奪われてしまう。
本当は、誰かを助けたかったのに、なぜか、相手がどんどん力をなくしていった経験が、なかったろうか?
その時あなたは、その相手を、「信頼」していただろうか。
もうひとつ、「信頼している」だけで、本当に必要な助けができない場合がある。
上のように誤解している場合、「信頼できる」はイコール、助けなどいらないだろう、と決めつけてしまうものだ。
そうすると、今度は
癒そうとしているとき、支えを必要とするとき、
一生懸命育とうとしているときに
皆目見当つかないほどに、不可能になってしまう。
なぜ、誰も手を差し伸べてくれないのだろう、なぜ、誰も助けてはくれないのだろう、孤独と絶望の中で、人は生きる力を失っていく。
もしも、大切なものを救いたいと願うならば
それを、必ず信頼してみてほしい。
そして、信頼し、手を差し伸べてみてほしい。
そのときに、はじめて、与えるほうは受け取ることができると思う。
受け取るほうは、与えることができると思う。
誰かを救うことは、自分が救われることなんだよ。
そこには信頼が、
両方のあいだに、信頼が、いるんだよ。
子育てでも
癒しを仕事にするでも
パートナーシップでも
他人でも
同じだよ。