ただ叱る、ただ怒る、ただやってはいけないことを言われる、
だと普通は子供でなくても、自分がダメな人間である、にとどまってしまう。
それがいけないことなんだ、ということは
実は小さな子供ですら、わかってやっている。
そのときに怒られたり言い詰められたりしてしまうと、
んー、シンプルな感じでいうと
「わかってる、でも2つの相反する出来事に挟まれて、僕はどうしていいかわからなかったんだよ。」
という混乱によって、
自分も縮こまる、怒られた相手へも怒りが湧く、解決策は見えない、
次に同じことがおこっても対処ができない(絶望)
などの感覚にしかならずに、次へと向かうことができない。
とても大事なことは、
難しいシチュエーションに遭遇したときに
嘘をついたり、ずるい振る舞いをしたり、ひとを傷つけるようなことをしてしまったり、やってはいけないことをしてしまう
彼らに対して、
怒るのは良い。
やってはいけないことだと知らしめるのは良い。(叱るなど)
なんでダメかを言うのも良い。
そのあとに、
「じゃあ、どうすればよかったんだろう?」
それを、示してあげることなのだ。
実はこれが一番難しい。
なぜなら、それは、自分たちが常に、「じゃあどうすればよかったのか」の答えをきちんと見出しながら生きている大人自体がほとんどいないから。
なにかを教えるときに、自分もわからないことについて
叱ったり怒ったりして、それはとてもとても表面的な儀式で終わり、
愛や信頼やほんとうのコミュニケーション自体が失われてしまう。
わたしはだから、いつも、「その先」を指し示したいと思う。
彼らがつまづいたら、それは手を引けない大人のせいである。
(責任転嫁大国・自己犠牲大国、日本のみんなへ。)
そして、手を引けない大人がいたら、それは、それを同じように教えてもらえてこなかった、老人や社会のせいである。
(責任転嫁大国・自己犠牲大国、日本のみんなへ。)
なので、わたしは悪く無い。
子供に適切な指導ができなくとも、それはわたしのせいではないのである。
で終わるか?
彼らがつまづくのは、手を引けない大人のせいである。
手を引けない大人しかいないのは、教えてもらえなかったせいである。
ならば、それは、きちんと教えることができなかったリーダーたちのせいである。
手が足りないのは仕方ない、
というわけで、どこぞの知らぬ、他人の子供が
道を外して悪いことをしてしまったのならば、
まわりまわってわたしのせいなのである。
だからわたしは今日も、向こう側にいる彼らに伝える言葉を、
その彼らに伝える距離にいる大人に伝える言葉を、
ずっと探している。
「じゃあ、どうしたらよかったんだろう?」
答えを、導き出させること。
答えなんて無いんだよ。
みんなの中から、引き出すんだ。
怒られても、正当化されても、誰が間違っていたかをほじくりだしても
何ひとつ、解決には繋がらないよ。
必要なのは、「希望」なんだ。
難しいその時に
なにか、最後「こうすればよかったんだ」とかすかに感じられる、「マニュアルに沿ったやりかた」ではない
”希望”。
その種を、
誰もが本当は持っているでしょ。