今日は、ラピオのフードコートで、たこやきを食べようとして上手に食べられずに泣いている、鼻水と涙を顔中にいっぱいにして、たこやきを前に、しわくちゃの小熊みたいな顔をしていた少年をレスキューした。
ちらりと見ると、少年はわんわん泣きわめき、止まる様子がなさそうで、パパは周りのひとに迷惑をかけてるんじゃないかと、実にバツが悪そうだった。
パパがくり返し話しかけるも、少年はガンとして泣き止まなくて、
その苦しさはとなりでうどんを食おうとしていたわたしにそのまま伝染するかのように、胸にどかんとくらいつき、まるで自分がパニックになって声が出ないそのときとまるで同じだとおもった。
「ああ、ただ理由があるのに。泣いている、理由があるだけなんだァ」
と静かに思いながら、泣き声を聞いて、
ふと、声をかけてみることにして、小熊のとなりに行った。
話せない彼に一個づつ問いかけて、鼻水をふいてみると、すっと泣き止んでなにかをモゴモゴ
一生懸命話そうとしている。
つまようじのことを、一生懸命何か話していて、ハシのことも、一生懸命何か話していて、
よし、つまようじと、ハシが何か問題なんだな。ということがすぐ見てとれた。
そうして一緒にやってみたら、
ゆっくりと、たこやきを食べ始めることができた。
たこやきのほうをしかと見つめながら、彼はただ、何かをしようとしてただけなんだ。
自分のやりかたで、一生懸命やろうとしているときの、助けが必要だけれど大人に届かないそのときの、その想いがひとつ、昇華していったような気がした。
もくもくと、静かになって、食べたかったたこやきが食べれたんだ。
そういうときの子どもの顔が、にこっと笑ってなんかいなくて、
真剣にたこやきのほうを向いているだけだけど
おもいだしただけで涙がにじんでくる。
ときどき見かける、子供がスーパーとかでひっくり返って泣いていて、必死な親たちが引きずるみたいにして無理矢理なやりとりをしているとき
こころが痛む。
こどもなんて泣くものだとか、
こどもなんてわがままなものだと、決めつけて育ったこども
泣いている理由がきちんとあると
わがままになっている理由がきちんとあると
そうして育てられたこども
行き先は、ぱっくりとふたつに別れていくのだろうと思う。
優しそうなお父さんで、たこやきを前になきわめく我が子が
なにを訴えてるのかなんて
わからなくて当然かもしれないけれど
ホッとした様子で、ありがとうございますと言ってくれた☺️
きっと、ちいさなことを助けてもらえたこどもたちは
愛を知る大人になっていくとおもう。
わたしは自分が苦しんできてよかったと心底そう思うんだ。
苦しくて、たこやきが食べれなくて困ってるきもちが、しぬほどわかるから。
誰かが泣き止んで、たこやきを食べ始められることほどしあわせなことはないよ。
今までスーパーとか保育園で、そうやって尋常じゃないようすで泣いてる子どもを見ても、じっと胸を痛めてはこらえてきて、
それは、日本の「ひとの子や子育てに口出ししない、手助けしない」
の暗黙の、手出ししあわない
を感じてたんだと今日わかった。
その他人の領域に踏み込んだら、必死なお母さんたちが逆に怒ったりするんじゃないかって思ってたけど
これからは、できる限り声を掛けることに決めた。
もし助けられなくても、関係ないんだってわかったから。
誰かが声をかけてほんとに助けようとしてくれることに、救われるんだって
やっと、わかったから。
見て見ぬふりや、たらいまわしや、助けるふりじゃなくて
困ってるひとに真摯に手をさしのべられる、
この国がそんな国になってほしい。