疲弊しすぎてた最近。
「生きること」ってわたしにとって、本当、たぶん
もっともハードルが高い部分で
みんながいろいろ目指している脇で、リアルに生命の危機すれすれで
「生きること」にふんばっているフシがあるな。
Eat, live and love.というわたしのコンセプトだが、
もう食べるとかどうでもいいし、生きるのが辛すぎて何百回と諦めかけ、
いやもうわたしって一体全体、「愛する」とか言ってきたけど
実際なにも愛してなかったんじゃないか。
って思った今日。
今朝はきつかった。そんなこんなで、イートもリブもラブも何も残らず、転げた。
でもなんか、たったひとつの生きる意味だった
「大好きな息子」と意思疎通がとれなくなって爆発したんだけど、
「やー、これは好きだな」って思うのがうっすら一応あって
1、自然
2、コナン
3、かわいいもの(服や雑貨など)
はたして、この3つはわたしを「生きる意味」へとつないでくれるのだろうか
もはや、癒しとか誰かを助けるとか家族とか愛とか、
それよりコナンか
とおもいながら、またもみんなを巻き込んでのサバイバルな1日であった。
わたしが、ひとと話していてもっとも身を削られるみたいにして痛いとき。
それは、そのひとが自分自身のすばらしい部分、ギフトを否定したり、目を覆ったりしつづけるときだ。
これまでも何度も、ギフトを受け入れていくみんなのプロセスを見守ってきたけど、それはやっぱり、簡単に登れる階段ではないのかもしれない。
でも、やっぱり目の前で、それを頑なに抵抗したり否定されたりすると、激しく混乱する。
自分がみている素晴らしい宝石のことを、その宝石自身が、傷つけるみたいな場面に立ち会うと、悲しいというか混乱して、激しく疲弊することがある。
目の前で、そのひとが、首を締めたり、お腹を刺したりしながら、わたしに向かって笑っているような感じがするんだ。
もう一個は、これもいまに始まったことではないけれど
そのひとが発する言葉と、行動が一致しないときや
本当に感じていることと、考えていることが矛盾するとき。
わたしは昔から、いろんなひとに「まいさんの前で嘘はつけない」とか「まいさんの前でなにかを取りつくろっても無駄だ」と言われてきた。
多分、最初から筒抜けだってことがわかる人は、そういう言い方をしてくれるので混乱はあまりないんだけど。
自分のそういう部分を、じょうずに使ってもらって、
「このひとは真実を教えてくれる」と感じているひとと話すことは、とても嬉しくて、そのままでいられる。
でもそうじゃない場合もたくさんあって、いまは家族と話していると、言っていることとやっていることが常に違っていて、すごく混乱する。みんな自分の話してることに気づいてないみたい。
多分、わたしには「ほんとうのこと」だけ聞こえるようになっていて、
それ以外のことがあまり聞こえないようになっているんだと思う。
そんな意味で、仕事でとても役に立つことはたくさんあるんだけど、日常生活において人々が繰り広げる会話は、ほとんど理解できないことが多くて、困ることもたくさんある。
すこしづつみんなに手伝ってもらいながら、必要なコミュニケーションができるようになるといいなと思う。
支えてくれるみなさんや、ご相談をくれるみなさんに
ありがとう。
今日も1日生きました。
明日もギリ生きる予定。かわいいバスソルトを作って発送の準備をすすめて、あとは猫草の種を買いにカインズに行く。書いてて思い出したけど、絵を送る梱包を考えないといけないんだった。ごはんは未定。がんばって食べる。