たとえばわたしは、できる側の人間の味方でもなければ、できない人間の味方でもない。
世間は、弱い立場を守ろうとしたり、優秀な人間を応援したりする。
でも、ほんとう今になっておもうんだけど、それはどちらも変で、
できるひとは、できないひとの気持ちなんてわからない
も
できないひとは、できるひとの苦しみなんてわからない
も
両方ずっと経験してきたわたしの中では、そのふたつが、わかりあうことこそが、行き先だと思うんだよ。
なんで、できるひとはできないひとの気持ちをわかるようにならなければいけないか?
それは、弱い存在は守られるべきだからではない。
「できる」存在として生まれてきたからには、やらなきゃいけないことがあるからだよ。
そして、できないひとはじゃあ、できる人にずっと怒っていたら、それでいいのか。
どうせできない人間の気持ちなんて、わからないと、そう世間にえばる権利が、よわいものには与えられてるのか。
そんなわけない。
できない人間は、できる人間に助けてもらうために、必死にならないといけない。
それが、できる人間を、助けることになるから。
助けてもらうって、こんなに難しいことなんだって
毎日そう思う。
ひっくり返って、転げ回って、ひとりでむりくりやることのほうが、100倍楽じゃないか、とそう思う。
でも、それじゃあこの分断された世界は、このまま平行線のままなんだ。
「できるひと」が、そこから目を逸らさずに誰かの気持ちに寄り添うことができること
それは、素晴らしいことだとおもう。
簡単ではないからこそ、それをやるんだよ。
そして、できないひとは、できるひとに、それをやらせる役目なんだとおもう。
橋がかかるまでは、どちらも、わからない、わからないと
たくさん思うかもしれないけれど
それでも、「自分」を持て余して文句を言ってる場合じゃないんだよ。
それくらいに、苦しんでいるひとがそばにきっといるはずなんだから。