でまえに、
「あまいものが、ひとをしあわせにする」がたまらなくだいすきだ、と書いた。
今日、チャーリーとチョコレート工場の映画を見て、
出てくるはずの、大好きな Pure imaginationという曲が流れなかったので、あれ?と思い
調べたら、夢のチョコレート工場という、1971年の古い映画のほうらしい。
(ジョニーディップじゃないほう)
その例の曲、Pure imaginationを検索していたら、
大好きな感じのメロウなジャジーなやつを見つけた。↑
Diana Pantonというカナダのジャズシンガー。すごくいい。可愛さとかものめちゃくちゃ好みのバランスの曲。

さてチョコレート工場、すてきなおはなし。
夢とか、家族の愛とか、傷が癒えていくさまとか
こころの純粋さとか、チョコレートとか、
わたしのだいすきなものが詰まった映画だった。
ところで、わたしが憧れたしごと、
本当にいいなあ、すてきだなあと思ったしごとは3つあった。
ひとつは学生時代に、結婚式の写真を撮るしごとをしていたとき、
こんなにひとが、最高に幸せな愛に満ちた顔でいる人生で最良の日に
その顔をおいかけシャッターを切るとき
ファインダー越しに、ひとびとの愛と感動にふれて、自分まで涙をこらえながら
これほどすてきなしごとはないとそうおもっていた。
もうひとつは、働いたことはないし、きっと過酷なしごとだろうと
そうおもうけれど、花屋さんで花を扱うというしごと。
これはただ想像だけれど、その一瞬で枯れゆく生物のなかでも
この世界でもっとも美しい存在のひとつである花を、
早朝冷たい水のなかで切りわけ管理する、
トゲのあるバラの葉のバランスを整えるとき、一本一本それが指に触るときによく思った。
それはそれは尊いしごとだろうと。
そしてもうひとつが、ケーキ屋さんだ。
ケーキ屋さんでアルバイトをしていたとき、来るお客さんは、
ケーキを買いに、くる。
ケーキは、このご時世、特別なとき以外でも簡単に手に入るくらいの存在だ。
それでも、やっぱり、ケーキを食べたいから、ケーキ屋さんで買おうとおもうときは、
そんなにギスギスした気持ちのときじゃなくて、なにか自分に特別な時間をあげたいときとか、
なにか自分を特別になぐさめてあげようと感じるときとか
それは、ただ、「ケーキを食べる」以上のなにかを含む、ひとつの、象徴的な存在であるとおもう。
もちろんお祝いとかお誕生日とかにひとびとがその場所に足を運ぶことは言うまでもなく、そのひとたちが誰かの顔を思い浮かべながらケーキを選ぶというその場面に立ちあえるということも、
いつだって胸がきゅっと締め付けられるようなおもいがして、
なんて、すてきなしごとなんだろう、とそう思ったものだった。
◯
まほうのチョコレート工場をつくったウィリーウォンカは、
世界中からたった5人だけのこどもを、工場の見学に招待した。
そのなかには、貧しくて、一年にたった一度だけ、
板チョコを買ってもらえるその誕生日の日に
その世界に5枚だけしかない招待状を手にする少年がいる。
とくべつな日に、とくべつなときにだけ食べる
甘いそれは、
想像を絶するくらいのスペシャルな意味がある。
おなじように、まほうのチョコレートに魅せられたままおとなになった、
工場のもちぬしであるチョコレートの天才ウィリーは、こどものころの傷ついた記憶のせいで、
そのままチョコレートの天才になったようだった。
短い童話くらいの、とてもシンプルなストーリーなんだけど
最後、家族のあたたかさと、
こどもの心のまま大人になったウィリーが、もういちどこどもにもどって
傷を癒されにいくとき
長い間わすれていた、誰かが「癒されていく瞬間」の尊さや祝福のことを
ようやくおもいだした気がした。
ひとは、癒されて、愛に触れて、
そうしてもういちど、そのエネルギーを、なにかを産みだす情熱に、変えてゆく。
無限にわいてきていたはずのチョコレートへの情熱が、失われたときに起こることは、
まっすぐにチョコレートへの道へと進んだきっかけになったときに
置き去りにしてきた記憶を、
しずかに包み込むように、癒すことだ。
甘い、魔法のチョコレート。
映画のなかでは、その欲に駆られて破滅していく人間と、
そうではなく、その優しさと、愛を享受していく主人公のふたつにわかれていた。
わたしは、あまいものは、ひとを、優しくするとおもう。
それは、身体でだけでなく、
こころをまるごと、癒すものだと。
そしてこれがだいすきな、Emile Pandolfiのピアノバージョン。
世界中に愛と癒しが行き渡り、みんなが支え合って生きてゆけますように💕



