もしも、アクアエスリスが二ネターブルだったとしたら、わたしは笑って、
それをやりすごすだろうか?
いいよいいよと、なんでもないことのように済ませるだろうか?
そんなことは無いとおもう。
いのちを無碍に扱うひとが、もしわたしの台所で笑っていたとしたら、容赦無くわたしはそこでビンタするとそう思うから。
自由であること。
限りなく自由で優しくよろこびに満ちているということは、
同時にすべてを自分で選択していきなさい、という厳しさのことだ。
それは、からだのことであろうと、
どんなささいなことであろうと、同じこと。
それがわかるようになることが、いのちの尊さを知るということだし、
それをわたしは伝えたいのだから。
それは厳しさとは違うとおもう。
愛のことだと思う。
たおくんに、ママ怖いよねえと言うと、あんなに泣いてるのを
ぜんぜん覚えてないみたいに、優しいっていう。
うまくいえないけど、なんでもその人の言うことを
全部ゆるすっていうのは優しいけどほんとの優しさじゃない。
ゆきちゃんにはその強さがある。
それを知ってもらわなきゃいけないし、勇気をもってほしい。