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なんどもなんども聞いても、なかなかその音とアルファベットが整合しなかった単語のひとつに、ナスタチウムがある。

わたしは、当時、ナスタチウムのことを知らなかった。だから、”ナスタシュ”みたいなそんなかんじのとてもおぼろげな響を頼りに、そのワサビの実と小さな明るい花のことを南半球の秋のひんやりした季節の傾きとともに、肌に叩き込んで、正式なNastatiumという綴りを見たのは、多分もっとずっと後になってからだった。

それは、わたしの台所のはじまりにあとから一役かってくれることとなった。

 

一挙に、しらないことがウヮッと押し寄せる経験をするときは、ひとつひとつのものごとやその意味や、とても正確に記憶したりすることができない代わりに、その中でとても重要なことと、とても重要じゃないことを振り分けるために一度こまやかな網におおきな穴をあけて、いちどすべてをいっしょくたに感じる必要がある。

外国で生活する、なんてことは、だいたいがそんなのの連続で、言葉も風土も文化もなにもかもわからない中で例えばこのメーカーのサランラップは電子レンジに弱いかどうか?を具体的にキャッチするのは、とてもあとのほうに順次やってくる。

目をかっと見開いて、うまれたての赤ん坊のように世界を眺めると、そこには見たことのない空の色のコントラストや、聞いたことのない鳥の鳴き声や、とても似ているけれど、全然違う、バスの乗り心地のようなものが次々に自分の中に飛び込んでくる。

それは、じっとぼんやりしていたら決して起こらない、自分がどこかに居るときに確かに能動的に世界へと飛び込んでいくための大事な意識の持ち方だとおもう。

それはとりたてて非日常の経験だけにとどまるわけではなくて、ふつうの、とても見慣れた風景のなかでも起こりうることだ。

わたしはそして、その時もいつもと同じように、もともと大きな瞳をさらに大きく瞳孔ごと広げて、臨月に近づいた大きな腹を抱えて瞬間瞬間の風景を眺めた。

そこには見たことのない新しい野菜もあったし、まだ名前を知らなかったナスタシュみたいな音の名前の、食べられる花が、食卓の皿の上に乗った時、自分の用意してきた新しいコンパクトカメラについたカールツァイスのレンズを通してどんな鮮やかな色のコントラストを醸し出すのか、とかも入っていた。