美味しくて優しいおにぎりのこと

 

 

8月末。訪れた、愛知県一宮市にあるお米とコーヒー屋さんCASA。

活動を始めようと思い、食に関する情報を集めるため、想いを持って活動されている方に会いにいく。

第一歩。

 

オーナーのジョーさんが丁度娘とベトナムに行っている時の動画をみて、小学生の娘さんのファンになり
お会いしに行きますと連絡した。

 

そこはCASAという名前の場所で、家がコンセプトらしく、

まさに家族団欒の静かな時間に、何かの間違いで紛れ込んだかのような気がした。

 

扉を開けると、ちょうど夏休み終わりの自由研究、旅のまとめを書いているところだった。

カウンターの奥には、女性が一人いて、それがご家族なのか、スタッフなのかはまだわからずに緊張した。

 

汗だくになりながら到着して、おにぎりとお味噌汁のセットを注文する。

 

おにぎりが運ばれて来て、それは丸々としており、

大きくもなく、小さくもなかった。

運ばれて来た側から、キラキラと光を放っているかのようだった。

 

脇には、小さな器に豆が入っていて、横に1個づつきゅうりとトマトが鎮座していて、
その手前に大事な部分を隠すみたいな役割で、細切りの昆布が添えてある。

お味噌汁の器は、ドデンとした丸いスープカップで

わたしがいつも、やってきたようにシンプルで、
長い間こんな食事らしい食事をしていない気がした。

 

 

 

ところでわたしは、米がそんなに好きではなくて、
朝はいつもパンだし、炊飯器もいまのところ買う予定がないし、

米へのこだわりも愛も、至極薄い方だと思う。

 

生理二日目、環境の変化に体がついていかず怒涛の数週間を過ごししていた夏の終わり
食事はほとんど喉を通らない日々は続いていて、貧血だった。

 

目の前に差し出されたおにぎりを前に、それはただ、
フラフラの自分へ注入するガソリンと、たったひとつのライフラインのような気がした。

 

白いものと、茶色いものが置いてあって、

まず白いおにぎりを手にして、そのままひとくち食べた瞬間に、

「おいしいっっ」と歓喜の声が漏れた。

 

そのときの自分は本当にちびまるこちゃんみたいな顔で、そのあと、

千と千尋の神隠しの、千が不安でいっぱいだったときに差し出されて

おにぎりを食べて号泣するシーンみたいになった。

 

 

その、確かな芯のようなお米の存在感とともに感じた、

味わったことのないような「優しさ」「柔らかさ」のことを驚きながら味わう。

 

それは両立しており、神がかった魔法のような口当たりだった。

 

しばらくしてCASAのインスタグラムの中に、

 

「おにぎりを握るときには空気を一緒に握る」

と書いてあって

 

 

「あゝ」

 

 

とうなづく。

 

 

お世辞ではなく、多分思い返しても、こんなに美味しいご飯を

これまでに食べたことがないと思った。

 

そもそも私の中でご飯というものはあんまり魅力的なものではなくて

腹にたまるし、動きは鈍るし、だいたい海外に住んでいる人間にとって、

”日本の美味しい米”と、”刺身になるような新鮮な魚介”にありつけること自体、

期待するべきものじゃないから。

 

 

握ってくれたカウンターの女性へ敬服したあと

号泣すべきか悩みつつ、ちょっぴり涙をこらえながら食べた。

 

家族の長、ジョーさんの奥さんであり、娘さんのお母さんだった。

 

 

いつも、料理は愛だと書くけれど、口に入れた瞬間にそれは伝わってくる。

味付けがどうとか、手が込んでいてどうとか、
ある意味「美味しい」というのも超越する、

その「良さ」みたいなもの。

 

それを「愛」と一括りにするのはほんとうはイヤなんだけど、

他に言葉がないからしょうがないきもちになる。

 

 

 

ひとくち、ひとくち最後まで味わって、豆の酢づけも、ぬか漬けも、

どれも本当に美味しくて、玄米のほうのおにぎりは

これまた未だかつてないほど美味しい米の、本来のその香ばしさと食感だった。

 

自分が、これまで色んな方法で炊いてきた玄米からは
ありない香りとテクスチャー(舌触り)に、

なんというか、自分のこれまでの米人生における

全てのおごりが恥ずかしくなって

 

「ごめんなさい」

とひれ伏す気持ちになった。

 

 

 

 

 

元気を取り戻したわたしはいきなり見ず知らずの家族に、

長々拙い夢の話をを聴いていただく。

 

日本の、ベジタリアンの状況のことや、一般の食事をする家族と、

アレルギーや病気などがきっかけで菜食の選択をする家族。

その間の溝のはなしや、彼らが望んでいるあり方のこと。

 

色々伺って、とても勉強になった。

 

 

かねてから感じていた、

自分には、軽々しく食事制限やベジタリアニズムについて語るほどの

生死に関わるような深刻な経験がない。

 

つまり、子供が重大な病気を抱えていたりとか、アレルギーで大変な想いをしたとか

そういうことがないまま自分はこれからの活動をしようとしていて、

彼ら(本人や家族)の気持ちなど、果たして本当に理解していると言えるのか?

リアリティに欠けるのではないか?

 

そんな部分が、ゆるやかに払拭されていくような気がした。

 

 

ジョーさんの所の子供達は、それぞれアレルギーや先天性の病気を抱えていて、

つまり私のように「健康」からのベジタリアンオプションではなく、

「そうせざるを得なかった」

 

という強さ、本質がそこにはあったから。

 

 

初めて、自分の口から、誰かに

 

「日本の給食を変えたいのだ」という話をした。

 

 

震えた。

 

 

 

 

生きているなにかを食べるということ。
生きている人に触れて、その人生の向こう側に想いを馳せること。

たくさんのお話を聴けて、それを時間をかけて消化してゆく日。

いつか、おにぎりは世界を救うという記事を書いたのを思い出して家路についた。

 

 

空は晴れていて、

人は優しく、スタートとしてはとても貴重。

 

 

 

お米で感動したかったら、ぜひ。↓

 

CASA
494-0001 愛知県 一宮市 (1,008.43 km)
開明蒲原89-1

https://www.facebook.com/casarice/

 

 

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