空に還る前に、食べる?

 

大好きな映画に千と千尋の神隠しがあります。

食べ物のシーンがリアルで有名なジブリだけど、知らない世界に紛れ込み、不安でいっぱいだった瞬間に号泣しながらおにぎりを食べるシーンは

何度見ても泣ける!!

 

そしてもうひとつ、とても重要なシーンが、

主人公のちひろの身体が消えてなくなりそうになった時。

 

 

神さまのこはくが、

「この世界のものを食べないと消えてしまうんだ」

と言って千尋に何かを食べさせるシーンです。

 

 

 

わたしは常々、自分がこの世界に身体を持って生きている

ということは、

上のシーンと全く同じで

 

人間の3次元で生きるために、その世界のものを食べる

ことだと感じてます。

 

 

美味しいものは好きなので、せっせと良いごはん屋さんに行きますが

なんて言うか、もうすこし大きな目的というか高い視点から自分のことを見つめると、

本当は別に全く食べなくていい

 

と感じている。

 

 

長らく食に対する執着は強かったので、食べることの喜びや苦しさ、

食べる大切さのことは楽しみつつ、

日々真剣に向き合いこだわりも山ほどあったけれど

 

一周すると、「食べなくていいなら食べないことが楽」

 

という無の感覚になりました。

 

これは、食べることを否定したりとか、拒食的な感覚では全くなくて、

 

ただ本当にニュートラルに「食べること自体大仕事だ」という
先日朗読した辰巳芳子先生の言葉どおり、

その重みを知った上で、楽したいというか。

 

 

ベジタリアンでいること、本当に良いエネルギーのものだけを摂取する生き方というのは、本来この上なく楽なんですね。

ヴィーガン然りです。

 

ただもっと楽なのは、「食べなくていいなら食べない」なんだろうなということ。

 

その感覚は、
食べる楽しさ・喜びという感覚は、まったく別次元に位置してます。

 

 

 

時々、空に還りたいとか、元いた場所に還りたい

生きてる意味がわからない、死にたい

 

というコメントが私の元に寄せられます。

 

 

前に「生」に御愁傷さま、「死」にお疲れさま、祝福

という文化がある

 

ということを書いたのだけど、わたしたちの魂は基本、この世界に

わざわざ苦しみを背負って学びに来ようとする大馬鹿勇敢な生き物なので

 

苦しくて当然、空に還りたくて当然、

死にたいという感覚自体、すごい自然なことだと思うわけです。

 

 

食べることを放棄して、

体がボロボロになれば、勝手に朽ちてゆく肉体。

 

 

そうすれば晴れて、家(空)に帰れますから

学校や職場や遊園地(この世界)にいるよりも、家の方が楽でしょう。

 

 

じゃあ家に還りなさいよ、とは言いません。

死にたいなら死ぬといいよ、それが祝福だから。とも言いません。

 

だってわざわざ好きこのんで、やれブスだのブサイクだの

ぶつくさ言いながら、その容姿を選んで、ハンディを背負って

遊園地に出かけにきたのは私たちの選択なんだから。

 

 

でもそれを忘れているからもっと苦しくなります。

 

 

身体ごと放棄したくなってしまったら

千と千尋の神隠しの、

「この世界のものを食べなければ、消えてなくなってしまうんだ」

 

という言葉を思いだしてください。

 

魂というピュアな存在を纏う、肉体自体がそもそも汚いという感覚もまた

自然な感覚です。

つまりその肉体を維持するために口に入れるものなど、

なにを食べたって汚れるに決まっています。

 

それでも、この世界のものをなんでもいいから口にすること。

 

「生きる」ことはそこから始まる。

 

 

「生きる」ことは、それ自体が汚れ仕事だから、

心配しなくてもあなたは今この瞬間かろうじて「命」をぶらさげている限り

汚いものだから。

 

 

それが全てです。

 

 

泣きながら、それを受け入れてゆくこと。

それが生きることであって、身体を持って食べることであって、

わたしたちが選んでやってきた

この世界での喜びを体験するための

 

まず第一関門。

 

 

 

汚して洗って、汚して洗って、汚して洗って

それで気が済んだら、

 

空に帰ればいい。

 

 

 

きっとヨボヨボで、

思い残すこともないかもしれません。