わたしはなにかをまだ恥じているのだろうかとそう思った。
醜い姿をだれかにさらすことや、誤解を受けること
そのすべてをもってして、自分のことばで、自分のことが言えるようになるには、
結構なんていうか、時間が必要になる。
誤解をうけても、もういいや、みたいな腹をくくる感じともちょっと違うし、
よし、今ならきっと届く気がする、みたいなのともちょっと違う
ただこう、時が満ちる、みたいなそういうときに、
いつか昔、突然まっしろな紙の上に色を落としたくなったときと同じように
ただ、言葉に起こしておきたくなる。
発達障害は、カッコ悪い。ある人からみると。
ある人からみると、なんだか特別になることもある。
無邪気で、無垢で、どこにもいくあてもない真実のなかで生きる人間たちにとって
その、この世界におけるみっともなさというのは、
多分どうでもいい部分だけど、でも多分、わたしは今、自分のことを言葉に起こすための情報を収集しているのだとおもう。
まるでブルーベリーの時期がやってきたら、必要なイングリディエンツが揃ってようやく完成する、ブルーベリーのチーズタルトみたいに。
発達障害は、ダサい。
なにがダサいかというと、その認識だ。
この日本における、障害への認識や、苦しみへの認識や、人権への認識や、癒しへの認識の低さが
ただすべてをダサくする。
真実なんて、超、超シンプルで、なんのトリックもないのに。
だから苦しみが無くならないんだよ。
豊かなくせに、この国は。